ウェルナー・ハイゼンベルク / 「部分と全体 - 私の生涯の偉大な出会いと対話」

別に今日買った本ではなくて、大学に入った頃に買って、何度も読んだ本である。いきなり出てきたのは、昨日までの地震で書棚の整理をせざる得なくなったためであるが、、懐かしいので読み返すことにした。しばらく楽しめるだろう。

この本は、20世紀を代表する物理学者の一人であるウェルナー・ハイゼンベルクの自伝である。対話集という形を借りた自伝となるだろうか。ボーアやアインシュタインやパウリやフェルミやと言った偉大な物理学者との対話は本当に書かれている内容であったと思われるのだが、高校時代の友人との対話は過去の記憶がだいぶん増幅されていると思うけれど… アインシュタインとの対話は必読に値すると思える痛快さで実におもしろい。 本書を通じて一貫して言えるのは、ハイゼンベルクという人は物理学に対しては特にそうだと思うが、それだけではなく何事に対しても実に真面目に取り組む人なのである。

この本は第二次大戦後に、ナチスに協力したのではないかと言う嫌疑をかけられたハイゼンベルクの弁明と言う読み方もあるかと思うが、ドイツ人だから出来る・せざる得なかったハイゼンベルクの決断というのもあるのであって、大部分の日本人にはこの本をそういう穿った読み方ではなく、立場を理解して読めるのではないかと思う。

ハイゼンベルクはドイツで原子爆弾の開発で指導的な立場にもあったわけだが、この本によれば結局原子爆弾の開発に目処を付けられても、ウランの同位体分離にかかる技術的なコストが大きいと判断し、爆弾の開発は進められなかったように書かれている。広島への原子爆弾の投下という大惨事に対して行った仲間との対話で、ハイゼンベルクは以下のように言っている。

おそらくあちらの物理学者は、戦争の初期には、原子爆弾の製造がドイツで試みやしないかと恐れただろう。そのことは理解できる。なぜなら、ウラン分裂はドイツのハーンによって発見されたものであり、そしてヒトラーが有能な物理学者を追放する前には、我が国の原子物理学の水準は高かったからね。だから原子爆弾を使ってヒトラーが勝利を収めなどしたら、途方もない危険なことになると考えて、この破局を回避するには『こっちはこっちで原子爆弾を作る』というやり方に出ても、それは当然のことのように思えたのだろう。殊にナチスの強制収容所において現実に起こった事を考えてみれば、いったい、それに対してとやかく言うことが出来るものだろうか。ドイツとの戦争が終わってしまったあとには、おそらくアメリカの多くの物理学者はこの武器の使用をやめさせようと忠告しただろうが、しかし彼らはこの時点では、もはや決定的な影響力を持っていなかったに違いない。そのことに対しても、われわれには批判する権限はない。なぜなら、たしかにわれわれもまた、われわれの政府が行った恐るべき事を阻止することが出来なかったからだ。われわれがその全貌を知らなかったと言うことは弁明にならない。それを確かめるために、われわれはきっともっと努力したはずだからね。

こうして考えてくると、戦争悪が以下に必然的なものであるか思い知らされていやになる。世界史において、善のためには人はいかなる手段を持って戦うことも許されるが、悪のためには許されないと言う原則、あるいはもっと悪く言えば、目的が手段を浄化すると言う原則が、繰り返し繰り返し実際に行われたことが分かる。…

後半の段落は一昨年の同時多発テロ以来、考えさせられる話だが、僕は_目的が手段を浄化するというのはあり得ない_と考えたいと思う。負債はどこかで何らかの形で支払われねばならないと思うからだ。血塗られた手は血塗られたまま洗い流せないと思うからだ。所詮、世の中絶対悪やら絶対善なる存在は存在しないし、互いに自分が正義だと思って事を起こしているし、自分たちのフィルターがかかった目で見て、相対的に自分たち俄然なる存在だと思っているだけにすぎないと思うからだ。

なんだか書いていて訳が分からなくなったが、上の話とは別にハイゼンベルクが量子力学を発見したときの喜びをつづった部分を読むという点でもお薦めなので、僕は特に高校を卒業したあたりの人に読んで欲しい本である。ただ気が付くとえらく高価な本になってしまったなぁ。(僕が買ったときは3300円だったが、いまは4500円もするのよね。みすずの本は活字といい、行の間隔といい、装丁といい、僕には凄く読みやすいんですが…)

ちなみにハイゼンベルクがどのように量子力学を発見したかという道のりは、朝永 振一郎の「量子力学 I」に詳しく書かれているのだが、量子力学を勉強したい人はこの本はずっと後に読むべきかも… (おもしろいと思うんだけど、普通このアプローチでは絶対分からないので。)

「十万億土」の謎

「十万億土」というのは、おそらく極楽浄土のことを指すと思うのだが、僕が謎だなと思っていたのはこの仏教用語のことではなくって、「十万億」_が気になっていたのだ。日本語における大きな数を表す言葉は、1万倍ごとに単位が変わると理解しているが、この言葉はそのルールに_あわないのだ

ということで、いろいろ調べもの。数の単位を小さな方から言うと、「一」、「十」、「百」、「千」、「万」までは10倍ごとに新しい単位になる。それ以降は1万倍ごとに新しい単位になる。例えば1万の1万倍は「億」、1億の1万倍は「兆」。この調子で、1万倍おきに「兆」、「京(けい)」、「垓(がい)」、「じょ」(漢字が書けないじゃないか!)、「穣(じょう)」、「溝(こう)」、「澗(かん)」、「正(せい)」、「載(さい)」、「極(ごく)」、「恒河沙(ごうがしゃ)」、「阿僧祇(あそうぎ)」、「那由他(なゆた)」、「不可思議(不可思議)」、「無量大数(むりょうたいすう)」という具合で、今日の日本語では1071の千無量大数まで表現可能である。ちなみに僕の世代だとこういう数の名前は、カール・セーガンの「Cosmos」のテレビシリーズのCMで思えたものだが…

で、当初の「十万億」って何だ<という話になるわけだが、いろいろ調べものをしてようやく疑問が氷解した。「一」「十」「百」「千」「万」の次の単位の作り方が問題なのである。アプローチは次の4パターン。

  • 10倍ごとに新しい数を表す名前を作る(下数)
  • 10000倍ごとに新しい数を表す名前を作る(中数, 万進)
  • 1億倍ごとに新しい数を表す名前を作る(中数, 万万進)
  • 単位を使い果たしたら新しい単位を作る(上数)

日本語の数概念は江戸時代から、中数(万進)を取ることになったため非常にすっきりしたものとなっているわけだ。下数を採用した場合は、国家予算の金額を言うだけで舌を噛みそうな感じになるし、桁ごとに名前が付くわけだから、滅多に使わない桁の名前を覚えきれない。(国家予算くらいの数で「澗」まで使い切ってしまう。)

一方上数は万万が億(108)、億億が兆(1016,万進では1京)、兆兆が京(1032,万進では1溝)という具合で、単位を2乗すると新しい単位になる。単位を使い切ったところで新しい単位を作るという一見合理的な名前の付け方だが、ちょっと考えると分かるが、非常に理解しがたい。簡単に言うと十万億兆なんて言われると1の後ろに何個0が付くかすぐに分からなくなってしまう。(1029になるはず。)

ということで、リーズナブルな数概念で_日本語って便利じゃの_と思うのだが、当初の疑問の「十万億」は1億(108)の10万倍な訳だから1013ということになる。無事解決だ。中国で音訳した当時に一般的に使われていた万万進の中数を使って音訳した仏教用語というところなのだろう。

ちなみさらに調べてみると。仏典でも那由他や阿僧祇や無量という言葉が出てくるのだが、そのときの那由他は107 x 22 = 1028。阿僧祇は107 x 2103 = 1070988433612780846483815379501056。無量は107 x 2105 = 10283953734451123385935261518004224という巨大な数らしい。この桁の増え方はもう開いた口がふさがらないという感じである。仏典での最も大きな数は「不可説不可説転」で107 x 2122 = 1037218383881977644441306597687849648128という具合で、これらの数はすでに指数形式でしか書き表すのもかなり…(観測可能な宇宙にある星の個数がおおよそ1023個くらい? 0の数だけでも観測可能な宇宙の星の数よりも大きな数というのが、何とも仏教というのも巨大な世界観だねぇ。)

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