2004年08月04日 水曜日
知識の無限の階梯
最近の議論から。物事を演繹的にもしくは帰納的に理解したい・教えたいという欲求は誰でもあるのですが、僕はそれは罠だと思うのである。ある理解したいことの起源や発見の動機や根源的な概念から筋を追って演繹的に順々に理解したり教えられたりできるとと格好がよいと思うのだが、実際はなかなかできない。僕は経験的に最初に習う(教える)時は可能な限り身近な具体的なものを手にとってと言うのが、一番だと思うからだ。
まぁ言い出すと知識という物は無限の階梯が広がっていると思うわけだ。僕は物理屋さんの端くれだったので、さかのぼった物の見方をしてみる。たとえばスタックとか言った電子回路的にも存在する記憶データ構造について考えてみることにすると、
電子回路屋さんだったらこういうかも知れない。
記憶モデルについて学ぶんだったら、現実の電子回路(LSI)上での実装を学んでみて欲しい
回路素子屋さんだったらこういうかも知れない。
- 現実の記憶素子はSRAMやDRAMやFlashメモリの動作原理も記憶を司る物であるから、やっぱり動作原理を押さえて置いて欲しい。
- 現実の記憶・回路素子は、トランジスタが基本だから、トランジスタの動作について学んで欲しい
半導体物性屋さんだったらこういう言うかも知れない。
トランジスタやダイオードのような回路を構成する物は、バンド理論で説明がある程度付く物だから、是非バンド理論を勉強して見て欲しい。
もっと一般の物性研究者や理論物理屋さんなら
バンド理論は、量子統計力学と場の量子論といった多体系の量子力学で説明付くからこういうのも勉強して欲しい
さらに一般の数学屋さんだったら- 所詮量子力学って言うのは、種々の数学で成り立っている物だから、その数学を説明する公理論的数学基礎論を学ぶべきだ
と言うかもしれない。さらに哲学屋さんが登場で… (ここで終点か…)
と言うことで、こういう事を言い出すとナンセンスのような気がする。下の階層から演繹的にと言う気持ちは分からなくもないが、学ぶ人に押しつけるのはちと余計なお世話の気がする。そう言うのは学ばざるを得なくなった時に学べばいい訳で、そのときに身に付くもんです。逆に人間必要のない物は結構すぐに忘れちゃうので無理に手を広げるもんじゃない。(特に二十代後半以降に触れた物は。)
逆に勉強しても勉強しても分かったようにならないような存在というのはある。僕の場合は才能のせいか、結局必要なかったのか分からないけども、多体型の量子力学は身を削って勉強した記憶があるけど、理解不能だった。当時たしかに必要な初歩的な計算はできたが、それが分かったとは言えなかったし、「理解した」というのはどんなことなんでしょう? という自問自答に陥りました。(まぁ若い時の非常に有意義な問いですが。)
と言うことで、自分の分かる範囲、取り扱う範囲をある程度見切って、前提として良い物を足がかりにいま必要なことをちゃんと理解し、それが必要な物だったのか、正しく使いこなすことができているのか見切るセンスが必要なのであって、演繹的に理解しているかどうかはあまり関係がないように思えます。無論理解が爆発的に進む場合(今まで別の物と思っていた物が、実はより一般的な存在の一面を見ているにすぎないときがつく場合)はあって、こういう理解の境地が増える方向に理解を進めて効く努力をできれば人として幸せだとは思うけど、何でもかんでもというのは、万能の存在ではない以上。少しずつ身に付けて行くもんではないですかね。なにげに今日思い出したので、書き直してみました。認めたくはないけれど、もう若くないし、時間が無限にあるわけでもないので、メリハリ付けて手を出していかんとね。