「数学は上から目線で」といわれても・・・

どうもIT系の人の議論を聞いていると議論の底の浅さを感じてしまう。まあえらい振りをして全然勉強してませんというところが見えてほほえましい。(かく言う僕も勉強しているわけではないが。) 以下、一物理系エンジニアの数学観が入り交じった話。

本題に入る前に「計算の速い子供が数学者に向いているのではないという話」について、僕自身は物理屋さんを志していた学生なので、数学はツール。身の回りを見ても計算の速い人は数学屋よりも物理屋の方が向いている。数学を志す場合の入口に確かに算数や高校までの数学があり、腕力でなんとかなる計算能力に多少の依存はあるとは思う。どちらかというと解があると分かっているパズルを解く能力と言うべきか。(この手の腕力が必要な理由は、なんと言っても数学科に行くためにとても数学とは言い難い受験数学を形式的にも乗り切らないといけないため。) でもおそらく数学を理解するためには抽象化された概念の理解、演繹と帰納といった論理的な方法を使いこなせる能力の方が算術的な計算能力よりも比較にならないほど重要なためであり、そろばんや公文式などで鍛えられる計算能力とどれだけ関係があるかと言われると、ほとんど無相関だろうと思うのである。
でもそろばんや公文式をベースにした暗算が全く役に立たないかといわれると、実はそうでもない。実際の生活で役立つというのは置いておいても、学生の時にゼミでよくその手の計算を黒板の前でやらされた。そのときにお世話になった研究室の先生は、子供の頃にそろばんをかなりやらされていたそうで、結構な桁数の四則演算を暗算できるそうな。さらに計算を速くするためにかなりの個数の平方根・常用対数の近似値を覚えていて、それでいて古典解析学が得意で主要な関数の展開式を覚えているとなると、おおむね実験で必要な有効桁くらいの近似計算だったら暗算でやってのけるのである。数値的な計算が得意ではない僕でさえも何個かの対数を覚えると結構な計算の当たりをつけることができるようになったので、暗算能力はどちらかというと実際の数値を扱う物理や化学といった数学をツールとして使う分野の方が有用だろう。そんなわけで、「そろばんができる→数学ができる」ということは保証はされないが、「数学が理解できる→そろばんができる」という人は確かにいるには違いない。でも必須能力ではないと思う。
さて前置きが長くなったが本題。「数学は上から目線で」の話。実際のところ高校生のレベルで数学を志すとしてそのときに雲の上の高い目標が見えるか、もしくは後から見ても高い目標が見えるかというとなかなか難しい。強いて言えば僕らあたりまでの世代であれば、Fermat-Wilesの定理であれば望みうる最高に高い目標だろうと思う。中学生にも問題の意味が理解できて、証明に関して現代数学の広範な知識や運用能力があっても理解は相当難しいのだから。その理解をしたいと言うだけで数学を志す価値はあると思う。それに比べEulerの公式あたりだとすぐ近くにあるマイルストーンにしか見えない。たしかにEulerの公式は美しい公式の一つであるのは否定しない。でもたとえば複素解析学であればCauchyの積分定理の方が遙かに適用範囲も広く、それでいて美しい公式であると思うのである。
記事を見ていると「オイラーの公式を自分で『発見』してしまった。」とある。ここで「オレって天才!」と思うのは自由だと思うのだが、どのような経路でオイラーの公式を発見したかということが、数学的には重要に思える。
Taylorの定理を不完全に理解しているだけでも、指数関数・正弦関数・余弦関数のべき級数展開式であれば厳密ではなくともらしく導けそうだ。まずTaylorの定理での剰余項をどう見ているか? 関数の定義域全体で剰余項が常に0に収束するということ(べき級数展開可能という条件のはずだが)は、ある一点の値とその無限次の導関数までの値で関数全体の形が決まってしまうというかなり直感的ではないことを言っている。それはどういう場合かを考察してみるだけでもかなり深い。また指数関数の展開式に複素数を形式的に代入してみて正弦関数と余弦関数の展開式のような物が出てきそうだが、そこからEulerの公式に持って行くには、それぞれの複素関数の正則性とか解析接続とかいう関数論的な土台が必要であって、そういう過程がないのであれば、どこかが天下りになっていて、極論すればただ公式を覚えているに過ぎないのではないかと思うのである。
実際にEuler自身はどういう風にたどり着いたかと考えるとなかなかおもしろい。関数論的なアプローチ(上に書いた正則性->解析接続)はEulerよりも後の世代で完成した領域なので、Eulerは全く別の方法すなわちn倍角の公式を虚数を使って表し、nを無限大に近づけるという方法でEulerの公式を得ている。おそらくEulerにとって対数関数や指数関数の考察、三角関数の考察、莫大な計算の経験によって直感的にEulerの公式を自然に理解していたのではなかろうかと思う。(「オイラーの無限解析」の第8章 「円から生じる超越量」のあたりを参照。) 今の大学で習うような解析学の方法ではこのEulerがたどった方法は使えない。(極限操作を行う前に近似式を入れているので。) このEulerの著書は計算オタクにはたまらないほどおもしろい本なので、ちょっと慣れない記法はある物の一読を勧めたい。(かくいう僕も暇つぶしに楽しめる本なので。)
大学時代に数学を勉強していて思ったのは、少なくとも物理数学の教科書(僕は寺沢寛一の「自然科学者のための数学概論」をよく参照した。学んだ教科書はもうちょっと易しい教科書であったが)で学べるような範囲は古典で、計算するとしても腕力と集中力の世界。(たとえばBesselの微分方程式をちゃんと解くとかいうので徹夜するのが楽しいくらいでないといかん。) むろん解けない問題もあるが、そんな問題も数値的なら何とかする方法はあるかもという世界で、計算機に頼れば解ける問題が広がるというところか。実際に僕が数学を勉強しているなと思ったのは、位相とか測度論とかを勉強していたときで、実際のところ講義で聴いても教科書を読んでもこれがすっかり何を言っているのか分からない。ああなるほどなと漠然と概念がわかってきたのはかなり歳をとってから、でも頭が硬くなってしまってそこから先に進まない。そんなわけでいまだに論理を組み立てて議論できるわけでもないし、まあ一生できるようにならんだろうと思う。でも抽象性の高い世界を進んでみたいという気持ちはもと数学を志した人間としてはあるのである。
少なくとも我々大部分が理解している数学的な領域では不完全性定理が問題となるような場合はないくらいに完全な世界だし、不完全性定理の存在を知ったから、数学ライフが0になってしまったというのは、そもそも数学やる気じゃなかっただろうといいたいぐらいである。他が全部抜けているようにしか見えない。Eulerの公式の理解と不完全性定理の不完全な理解だけで数学をおとしめないでほしい物だ。
あと「オイラーの贈り物」を未だに名著と読んではばからない人がいるが、良くできている本であるとは思う物の、この本はEulerの公式の理解を最短距離でやろうという本であって、この本で扱っている話題から、さらにどのような数学の世界がふくらんでいくかということには全く触れられていない。高校生1年か2年の夏休みあたりに取り組んでみるとおもしろいかもとは思う物の適切な指導者は必要だと思う。さらに分厚い「虚数の情緒」だと数学以外の話題が痛すぎる。子供に読ませる気にはなれない本である。枝葉の話と中途半端な物理の話を差し引いて半分くらいの本にすれば良いかもしれないと思うが、そうするとおそらく「オイラーの贈り物」になるのか。大学1年当たりでさらっと読むなら森毅先生の「現代の古典解析」だろうか。これをさくさく読んでちゃんとした教科書に当たっていけばいいのかなと思うのである。
ちゃんと勉強してないし、適当に解析学に足を突っ込んだだけではあるので、適当な物書きではあるが、そんな僕でももっと勉強してから話ししようやと言いたいのである。