2002年01月15日 火曜日

レイチェル・カーソン / 「センス・オブ・ワンダー」

今日も本屋に行ったので購入した。薄い本なのであっという間に読める本だが、本当に考えさせられる本だ。自分が生きていて、Sense of Wonderっていうのは、日々何気なく暮らしていると薄れていく感覚なのかもしれない。カーソン自身が言うように、

美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なるものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などの様々な感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身に付きます。

消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道をきりひらいてあげることのほうがどんなにたいせつかわかりません。
と思うんです。自然科学を勉強してきて、本質的に重要なことは知識の探求でなくて、いろんなところで聞いたり読んだりすることは多いのですが、未知なものに遭遇したときの驚嘆と、そのときに感じる強烈な好奇心を持てることなんですね。自分が子供を持つことがあったときに実践できるだろうか。少なくとも僕の親はある程度上のことを実践しているので、僕もそうしないとならないんだろうな。
そのうち原書も買おうと思う。(この分量なら読めると思うので)

写真を渡すとき

アルバムに入れてみた。きちっとアルバムに入れてみるとやっぱり良いと思った。で、渡してみた結果はなかなか好評な感想を得たので、今後できたら続けていこう。

いろいろ考えてみる

写真についていろいろ考えることは多いが、僕が感性で絵作りをするにはもっと先のような気がしている。そう思うのは、まだ模索しているからなのかな。「綺麗な写真じゃつまらない」とか「可愛いだけだとつまらない」とか「露出がはずれていてもかまわない」とか「ピントがずれていてもいいよね」とか「ぶれていても雰囲気があればいいよね」とか言うのは、アンチテーゼとしている基本の撮り方が常にどんな状況でもパーフェクトにできるようになって初めて言える話だと思っている。僕はまだその域に行っていないと思っている。どんな絵描きさんも料理人さんもスポーツ選手もみっちり基本をやるんだし。僕は写真でプロになることは決してないが、ある程度はできるようになっておかないと。
最近は写真を見ることよりも、絵を見ることの方が重要かなと思っている。絵から得ることができるものはやっぱり多いし。今月は岩手県立美術館にクロード・モネの「睡蓮」の絵を見に行きたい。教科書や美術書で見ると小さな絵に見えるが、そうではなく2m四方の絵が多い。実物はやっぱり見る機会があれば見ておくべきもので、油彩は特にタッチや絵の具の質感まで見ることができるので、美術書でただ見るだけよりも本当に楽しめると思う。(といっても絵を描くわけではないんだけども。)

今月のFSS

昨日帰りの車の中でDorothyさんとFSSの話をして、そういえば今月分まだ読んでいなかったなぁと思って立ち読みした。今月はなかなか良かった。フィルモア皇帝がクリスティン・Vに対して言ったせりふが実に印象的。戦いを扱うドラマで自己を犠牲にしてとか、死んでも守り抜くとか言う話はよく見かけるが、生きぬいてこそなんぼ。生きていくことがより厳しい状況を生むにしてもだ。
今月の最後のコマは実に来月からの怒濤の展開を予感させるもので、やっぱダグラス・カイエンはここで退場してしまうのであろうか。先々月あたりのアウクソーとの別れのシーンといい、やっぱなんかあるなぁ。来月が楽しみ。