Physics

2002年04月13日 土曜日

Quark Star

Natureの記事。久しぶりに物理マインドを呼び覚ます内容かなぁ。さすがに天文学の範疇に属することは知らないので、元の記事はいつものごとく/.-Jからの話。やっぱNatureは記事の斜め読みくらいはせんとならんかな。ええっと、僕の知識が足りないだけだが、今まで、星が新星・超新星(恒星が寿命を全うすると大爆発をする現象)となった後に残されるのは、太陽のような小さな星であればWhite Dwarf(白色矮星)、数倍の大きさならばNeutron Star(中性子星)、10倍以上の大きな星ならBlack Hole(ブラックホール)となると言うことは知っていた。Black Hale自身の内部構造がどうなっているか分からないが、Schwarzschild radius(シュバルツシルト半径)よりも小さな領域は「事象の地平線」のむこう側で議論することに物理的な意味がないので、内部構造に関してはBlack Haleはあまり難しい天体ではないと思う。(おもしろい天体であるには違いないが)
内部構造は、Neutron Starの方がおもしろい。Neutoron Starは非常に密度の大きな星で、内部(Core付近?)では重力が強くなりすぎて、原子を構成できなくなり中性子の固まりになる。ただ中性子はFermionなので、Pauliの排他律に従う粒子であるから、一つの量子状態にならない。つまり縮退圧という重力に釣り合う力が働く。つまり中性子の構造を壊すまでになっていない、まだスカスカ(?)の星である。(中性子は内部構造のある粒子で3つのクォークからなる) 今回の記事では、中性子星にしては振る舞いがおかしい星が見つかって、理論的に予想されていたQuark Star(クォーク星)であろうという話だ。Quark StarはNeutron Starよりは密度があるがギリギリBlack Haleになっていない限りなくBlack Holeのような天体であろうと考えられる。(おそらく降着円盤とかはあるんでしょう。) クォークもFermionなので、中性子の時よりも大きなエネルギーであろうが縮退圧がある。要は中性子の縮退圧より重力の方が強くてクォークの縮退圧より重力が弱い場合にクォーク星になると考えていいのだろう。(きわめて珍しい存在と思うが。)
で、僕の興味は中性子星内部の中性子の流体やクォーク星の内部の物性に興味がでてきそうだ。いままで、超伝導やら超流動みたいにBosonの物性と考えられる(Bose-Einstain凝縮が起こっていると考えられる)物性に興味があったが、Fermionのような変な性質を持っている粒子の量子物性って言うのもなかなか興味深いものだと思う。果たしてこんなことを僕が勉強できるのであろうか? (場の量子論の教科書を読んでも、理解が涌くのはBose粒子の場の理論だものねぇ。違いますかね。)

2002年03月27日 水曜日

おかしいぞ

最近某放送局の「サイエンス・アイ」や「宇宙」やS.ホーキングの「ホーキング未来を語る」を見たり、読んだりしてふと思ったのだが、「真空のエネルギー」ってなんじゃ?と思って聞いていたら、場の零点エネルギーという理解で良いのであろうか?
現状の観測データを説明できないからと言って、真空のエネルギーを新しい力の源とするのは、ある路線で物理を勉強してきた人間の感覚から言うと、「非常に気持ち悪い」と思う。真空のエネルギーは全体の系の大きさに比例して大きくなると言う説明であるが、エネルギー保存測はどうなるのであろうか? なんかおおざっぱに考えてもかなり怪しい。この場合宇宙論を研究している研究者は、「エネルギー保存測はある局所的な系で近似的に成立する法則だ」も言うのだろうか。
零点エネルギーって場の量子論を勉強したときに出てくる(調和振動子の量子力学でも出てくるが)概念だったと思うけども、なんだか入り口で習うような概念が最後に出てくるとはおもしろいと思うのだけど、ちと無理ありすぎだと思うのね。(僕はこの手の理論は分からないから無責任な批判モードであるのは否定しない。) 僕は宇宙論もおもしろいと思うけど、本当におもしろい物理現象は掌の上に乗るようなスケールの現象が実際のところおもしろくて、それでいて未踏破な領域がいっぱいあると思うのね。そういう意味では原子核以下のスケールでしか見えてこない世界や、重力だけが支配的な宇宙論よりも、物性物理の方がおもしろいと思うのだが、人気は出ないやね。

2002年03月10日 日曜日

文明の滅亡

今日の「知ってるつもり」から。「知ってるつもり」はその名の通り知ってるつもりのコメンテータが無責任な意見を吐く、批判的に見ればかなりおもしろい番組であるが、呆れた意見を吐く加山雄三が嫌いなのと、見るのが疲れる番組なのであまり見ていない。今日久しぶりに見たら、最終回スペシャルとか言う話で、「文明の滅亡」を題材に現代文明のあり方に警鐘を鳴らす内容となっている。最終回的まとめにはいるのであれば、警鐘を鳴らしてと疑問を問うというのはあるかもしれないが…
今回の見方としてはおもしろいとは思うが、かなり一元的ではあるし、言いたい結論を決めてからの議論なのでそういう意味ではおもしろくないとも言える。で、エジプト文明の「女性中心的価値観」からローマ帝政時代に取って代わって、「男性中心的価値観」への価値観の変容があって、その後今まで「男性的価値観」の自然などからの搾取構造が変わっいないと言う。現在のアメリカなどの言うところの「民主主義+資本主義」の行き着く果てに、搾取され尽くした自然がいずれ現代文明の滅亡を招くのではないかいう感じに読みとれる。
僕なんかが思うのは、別に文明が滅亡するのが必然であるならば、受け入れざる得ない。価値観を喪失して新たな価値観が台頭して旧来の価値観が変容して文明が滅亡するならば、それは文明の滅亡ではなく新たな価値観を持った文明の登場と考えたい。こういう価値観の転換というのはいきなり起こる物であって、案外相転移みたいな物と同じような説明ができるものなのかも知れない。ただ文明の交代があるとして問題なのは、その間には混乱と争いあり、停滞と貧困を生む。そっちの方が問題だとおもう。
そういえば、こういう話はアイザック・アシモフの「銀河帝国興亡史」なんかの考察が古いけれどもあって、こういうことを考えるのはなかなかおもしろい。僕はこの本を読んだあとに、エドワード・ギボンの「ローマ帝国衰亡史」などを読んでみたが、一つの文明・文化の興亡を見るのは、歴史の勉強では必要であると思う。生き方や考え方をいろいろと歴史から教訓を得るにはこういう風な本は良いだと思う。ただちと難しい本なので、僕は塩野七生さんの「ローマ人の物語」をお勧めする。日本人は歴史の教育で一つの国家・文明の勃興から滅亡までを一貫して教育されない。これは困ったことである。「平家物語」みたいな優れた文学があるのにもかかわらずである。こういう物の見方はあった方がよいと思うので、ぜひいろいろと本を読んでいきたい。そういえば、ハリ・セルダンの「心理歴史学(サイコ・ヒストリー)」はここの人間を相互作用する物としてとらえて、全体の系(銀河帝国)の振る舞い(歴史)を計算するという、統計力学的な学問だったなぁ。

2001年10月28日 日曜日

What do you care what other people think?

この言葉は以前にも書いたが、僕の処世訓というか、好きな言葉である。この言葉はアメリカの物理学者であるファインマン先生の言葉(奥さんにそういわれたのだそうだが)で、生き方そのものであったと思う。ファインマン先生風に日本語に訳すと「人がどう思ってもちっともかまわない」とでもなるだろうか。ただその生き方は積極的無責任ではない。しっかり考え、あらゆることに興味を持ち、科学的に思考したうえで、その向こう側にあるものだ。徹底的にこう言う風に生きられる社会ではないが、こう言う自由さはもっていたいし、人の意見に迎合して生きてもつまらないだけだ。

2001年10月15日 月曜日

R.P.Feynman / The Feynman Lectures on Physics

言わずと知れたR.P.ファインマンの「ファインマン物理学」の第1巻であるが、最近光学の部分と電磁気学の部分を読み返している。やっぱり物理の考え方のエッセンスが詰まっている楽しい本だ。電磁気学のあたりは単位系がアレだけども、思想自体は分かりやすく書かれている名著だと思っている。教科書というより講義録というべきもの。僕は特に光学はいい先生に恵まれなかったので、学生のころからこの本は愛読書であったが、いまさらながらいい本だと思う。天才が書いているだけあって難しいところはあるんだけども、物理を志す人は全体的に読むべき本だな。(無論、必要な部分はランダウの本を読んだりするのは当然だろうが…)

2001年10月14日 日曜日

最近の勉強ネタ

最近の物理ものの勉強ネタであるが、Fourier光学と近軸光学と低次の収差論をかじってみようと思う。まぁお仕事に絡むので。いまのところお仕事な話では、Fraunhofer回折な話でかたつくので、でてくるのは全部Fourier変換ばかり。見たことがある算数で話がすむのは嬉しいものだ。とはいえ、学生のころからFourier変換が苦手なのよね。最近積分記号なんて書いていないから、ちゃんと計算できるのだろうか。とりあえず手始めに分解能の計算でもしてみようと思う。(ああっ、Bessel関数なのね…)
磁性出身の僕としてはもともと光学が嫌い(数式を分かりにくく書く偉い人が多いので。偏見ですが。)なんだけども、まじめに計算すれば何とかなるだろう。でもMathematicaが必要かも…

2001年07月24日 火曜日

趣味について

人の趣味にとやかく言う馬鹿な奴が身の回りにいるのよ。まぁ彼の場合は何でも心をえぐるような言い方しかできない人なんで、どうでもいいし相手にもしてないんだけどね。そこそこ自分がのめりこんでいるものがあれば、その世界である程度の知識は得るものだし、マニアになるのは必然だ。そんなことで文句をいわれる筋合いはないのだ。彼の姿を見ていると、他人の趣味や嗜好で見方を決めるような愚かな事をすまいと日々思う。まぁ僕自身は人と同じ生き方をしたいとも思わないし、流行なんて気にしてないし、人が知っていることや人がやっていることを自分でやってもつまらないじゃないと考えて日々生き長らえている。人の目を気にするほど、そんなに人生暇してないしね。無論人に迷惑をかけるような趣味を持つのは考え物だけど。
でも、1つの趣味にのめりこみすぎるのはもっと問題だ。何でも興味を持つことは、人生のバランスを保つのに重要だ。僕の場合は、食べ物の嗜好、絵画、文学(これは結構怪しい)、クラッシックからポップスやら最近はジャズまで広がりつつある音楽鑑賞、風景・ネイチャー写真からスポーツ・女性ポートレートまでを楽しむ写真撮影・鑑賞、映画鑑賞、アニメーションの鑑賞、OS/コンパイラの収集・使用、美しい数式・物理法則を眺めるなどといった多彩な趣味を持ち合わせているが、すべてについて重なる人をみたことはない。そんな人がいたら気持ち悪い。ただ少ない趣味と仕事と家族だけが、生きがいなんていう悲しい人生は送りたくない。平均的な人間にもなりたくない。そう思うのだ。ということで何がいいたいかというと、人に迷惑がかからない・自分でやっていることが客観的に判断できる範囲で「人がどう思おうと、いいじゃない。」ということだ。ファインマンの有名な言葉を思い出したところで、いまさらながらそのとおりなんだなぁと思う今日この頃だ。自由奔放に生きることは難しいが、かくありたいものだ。